『わたしに会うまでの1600キロ』立派すぎた助手席の娘

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 ダメ人間讃歌ではない。「立派すぎた母と駄目な娘の物語」でもない。主人公の凋落は、「立派すぎた母と娘ゆえの悲劇」だ。自分の人生の運転席に座れなかった母親と同じく、主人公もまた「母の立派な娘」という助手席に乗り続けていた。1,600キロの横断は、彼女が人生の運転席に座る為の旅路である。

【目次】
  1. 母を最も心配していた娘
  2. 母に甘えられない娘
  3. 娘に甘えてしまった母
  4. 助手席から運転席への旅

1.母を最も心配していた娘 

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  主人公シェリル・ストレイドはフェミニストだ。横断中に出会った失礼な男性にも「自分はフェミニストとはっきり宣言している。実話ゆえに恐縮であるが、あくまでも映画のキャラクタとして見ると、シェリルのフェミニズム思想形成には両親が関係しているのではないか。幼少時、シェリルは弟よりも冷静にDVする父親とDVされる母親を見ている。母を殴る父がそのあとに子供達を甘やかそうが、まだ小さかった弟と違ってシェリルは喜ばず、顔を腫らしている母に視線を向ける。離婚後、母は貧しいなか2人の子どもたちを育てた。収入の少ないシングルマザーがいかに過酷な人生を歩むか直に観察したシェリルが、「女性も社会的に自立し収入を得るべきである」という思想を持つのは自然である。辛いながらも明るく努める母親をずっと心配していたのだろう。シェリルは優しい娘だったのだ。その「優しさ」は、「母親に甘えられない辛さ」、そして「子が持つべきでない責任意識」を生んでしまう。

2.母に甘えられない娘

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 シェリルは母親に甘えられない。一方で、弟は姉より母の愛を自然に求められていた。大学の課題に取り組む母親に対し、弟はそれを中断させ料理を作ってもらう。シェリルは「もう弟は子供ではないのだから自分で作らせろ」と反対する。

 シェリルは母親の苦労を知っているからこそ、母の苦労を減らす為に甘えない。それはいつしか「甘えない」のでなく「甘えられない」になってしまう。母を心配するあまり甘えられない彼女はストレスを抱えていき、率先的に己の人生の時間を減らし弟を甘やかす母親へイラつきを覚えてゆく。母に負担をかけぬよう努めたからこそ余裕が無くなって「何故幸せそうにするのか」「私より教養が無い」などと言ってしまう。彼女が自ら背負った責任、制約は、本来保護される対象である子供が持つべき物ではない。まだ子供であったシェリルは、母親を心配する余り持つべきでない責任を背負ってしまっていたのだ。母親の病気が発覚する前からシェリルは疲れきっていただろう。これは母親には問題が見当たらない為、悲劇である*1

3.娘に甘えてしまった母

 シェリルが母親に甘え“られなく”なっていたことは、母の病が判明した時、個室トイレで泣き、誰にも涙を見せなかった点から明らかだ。そのあとも彼女はしっかりと母親の看病をする。それだけでなく、母の代わりに弟の世話までする。母の余命を知った衝撃で母に会おうとしない弟を勇気づけ、母親と弟の為に2人を会わせようと取り持った。本来子供が持たなくて良い責任を自ら背負い、その責任通り行動していたシェリルを、誰が「立派じゃない」なんて言うのだろうか。むしろ立派“すぎる”だろう。だからこそ母親は余命を宣告されたショックでシェリルに本音を吐露している。「子供を育ててようやく自分の人生が持てると思ったのに」「いつも誰かの娘か母親だった。一度も自分の人生の運転席に居られなかった」なんて、あそこまで余裕を失わない限り、あの立派な母親は娘に言わないだろう。その上で、隣に居るのがシェリルの弟だったらこう発言していなかったのでないか。その場に居たのが彼女の苦労を十二分に理解しているシェリルだったからこそ、つい甘える形で言ってしまったのだ。これも悲劇であるが、娘はそれを聞いてしまった。立派すぎた彼女が「娘である自分も母から母の人生を奪った」と決定的な(背負うべきでない)罪悪感を抱いてしまうのは自然だ。

 母親は突然逝去してしまう。シェリルが「ようやく母に弟を会わせられる」と期待を胸に膨らませた直後に。彼女は、まだ「私が貴方の人生を奪ってしまってごめんなさい」と言っていない。彼女は、まだ「子供のくせにそんなことを思うな」と母に叱られていない。母に甘えられていない。突然の死によって「母から人生を奪った罪悪感」は重量を増し、シェリルを押し潰す。持つべきではない重い責任を20年間背負い続けた立派な娘は、ついに崩壊し、抵抗する力無く凋落する。

4.助手席から運転席への旅

 セックス中毒と薬物中毒を進行させるシェリルは親友に叱られる。この親友も鍵である。  ……故、彼女は凋落したシェリルを見捨てていないのか? 何故わざわざ本音で叱ってまでくれるのか? それどころか、父親すらわからない妊娠を知ったら、共に計画を立ててあげようとするのか?……  きっと親友も、シェリルが「立派すぎたこと」を知っているのだろう。「立派すぎたから凋落してしまった悲劇」に気づいているからこそ、あそこまでの態度を取られても見捨てることが出来ない。これはシェリルの元夫も同じなのでないか。

 重度の薬物中毒となり、不倫を繰り返し、愛し愛してくれた夫と離婚し、その果てに“まだ産まれぬ父親もわからぬ子”を殺してしまったシェリルが放った、「なんで私はこんな女になったんだろう」という言葉は本心だろう*2。彼女の母親は、いつも誰かの娘か誰かの母親で自分の人生を持てなかった」と言った。それは「母に苦労させない娘」であろうとし続けたシェリルも同じだ。彼女はずっと「母親の立派な娘」だったのだ。彼女の人生もまた、「ずっと助手席」だったのだ。「母親の立派な娘」を人生の指針として生きてきたシェリルが、悲劇的な形で母親を失い、人生という車をコース外へ暴走させてしまうのも不思議ではない。心が破壊されてしまった上に、そもそも運転の仕方がわからないのだから。自分の人生の運転席に座る決意をした彼女は、「自分の人生」を手に入れる為、旅に出る。

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参考資料

*1:なにが悪かったのかを考えるなら、アルコール中毒で暴力を振るう父親、そしてシングルマザー家計を補えていない行政だろう

*2:苦労する母親を心配しながら尊敬して育ったシェリルは、将来の自分の子供に「両親に甘えられる家庭環境」を授けたい想いが人一倍強かったはずだ