『ビッグ・リトル・ライズ』女性に厳しいドラマ?

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【※後半ネタバレ無し】

「女は物事を根に持つ」「恨みは絶対忘れない」

「何でも女のせい?」  

  「女性の時代の象徴」だと評されたエミー賞受賞ドラマ『ビッグリトルライズ』はこのような台詞から始まる。彼らは公立小学校に子供を通わせる保護者や関係者たちで、それぞれ警察に供述している最中。校内イベントで殺人事件が起こったのだ。冒頭から女性に対する偏見、それに対する反論が登場するが、作中では男性も女性も噂話や遺恨を語り続ける。「女性は噂話ばかりして物事を根に持つ」といった偏見があるが、性別など関係なく多くの人は噂話をするし、忘れないことは忘れない。このドラマは、キャラクタが持つ「社会常識的には欠点とされがちな側面」を描きつづける。メインキャラには女性が多いため「女性に優しい」というよりむしろ「厳しい」深掘りともとれる。母親の立場の女性たちの様々な側面を描いたからこそ、今日のフェミニズム旋風で評価された向きを感じさせるのだ。『ビッグリトルライズ』の女性たちは完璧ではないし、被害者である一方加害者でもある。

 『ビッグリトルライズ』には、キャラクタの複雑なパーソナリティを表す“小さいが大きな”演出が張り巡らされている。例えば、ニコール・キッドマンが演じたセレステ。彼女は自らセラピストに会いに行ったにも関わらず自分がDV被害者ということを認められない。一方で、エリート弁護士の経歴を持つセレステは友人から「同僚から突然キスされた話」をされた時「同意があったか」問う。シリアスな口調で話していない友人に対して性暴力されていないかをきちんと確認する性格なのだ。つまり、性犯罪や性暴力にまつわる専門的な知識を彼女は持っている。それなのに、自分が夫に暴行されるDV被害者だということはセラピストの前でも認めることができない。セレステの苦しみをより感じさせる設定だが、さらに大きく言えば「性暴力について知識を持つ専門家でもDV被害環境に陥る恐ろしさ」がささやかな描写で構成されている。

 リース・ウィザースプーン演じるマデリンの些細な描写も秀逸だ。周囲から痛い人扱いされる彼女は自他に「正しさ」を要求する人物。そんな彼女は、一人でいる時は立ち入り禁止の階段を無理やり通るズルをして小学校に行く。彼女が声高に要求する「正しさ」の敢行は、彼女自身も果たせていない。このマデリンが「正しさ」に執着するようになった原因も、ところどころでほのめかされる。彼女の夫は「マデリンは出身家庭で苦労した」といったことを語っている。マデリンは不成立家庭出身で、親の影響によって自己受容のバランスを崩してしまったのかもしれない。そのことを理由に物事を要求されたゾーイ・クラヴィッツ演じるボニーの「暗い過去はみんなが背負ってる」といった返答ももっともなのだが。

  『ビッグリトルライズ』でもう一つ印象的だった描写は子供たちにまつわるものだ。それぞれ辛い経験を抱えている女性たちの子供達は、小学1年生にして「不成立家庭の子供」的になっている。顕著なのはマデリンの末娘。家でも学校でも不和が起こると音楽やジョークで場をおさめようとする。「苦労人」だと認識されにくい「オモシロキャラ」挙動も多い。意見はわかれるかもしれないが、私はアダルトチルドレンにおけるケア・テイカーとマスコットの役割を感じた。つまり、このドラマは、悩める母たちの苦しみのみならず、それらの結果としての「子供たちのアダルトチルドレン化」も描いているのではないか。終盤エピソードで発覚する事実は最たる例だ。周囲から「痛い人」と認識される主人公マデリンは、ある面では「不遇の女性」であり、他の面では「毒親」なのかもしれない。視聴者の感情移入が集中する主人公が「毒親被害者の毒親」であるなど中々に厳しい。ほかにも、物語にはマデリンによって傷つけられた人物が登場していく。『ビッグリトルライズ』の女性たちは、男性たちと同様に被害者性も加害者性も併せ持っている。だからこそ(もちろん性別など関係なく)人間が複雑であることを感じさせる作品なのだ。このドラマは、単純に「女性にやさしい」わけではなく、女性キャラクタを「一人の複雑な人間」として描くからこその「厳しさ」を孕んでいる。

 

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『ビッグリトルライズ』と同じジャン=マレク・ヴァレ監督、リース・ウィザースプーン&ローラ・ダン出演作。こちらもリースを主人公に沿え「子が親から受ける影響」を描いた映画。