映画とTVの融合と『ビッグ・リトル・ライズ』、メリル・ストリープ (TIME Magazine)

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コメント:アメリカの映画とTVドラマの距離感にまつわるTIME記事のメモです。内容をかいつまんでおり個人的解釈・文体も入れてるので、資料にはしないほうが良いです。

 2017年、HBO『ビッグ・リトル・ライズ』により「映画は芸術/TVは格下」といった見方は消滅した。オスカー女優のリース・ウィザースプーンニコール・キッドマンが企画を立ち上げて製作・出演したこのドラマのシーズン2には、アカデミー賞最多ノミネート数を誇る──つまりはアメリカ映画界が誇る最高の俳優──メリル・ストリープがキャスティングされている。こうした映画スターのTV出演は、まったくもって珍しいものではなくなった。2019年アカデミー賞で主演部門を受賞したラミ・マレックオリヴィア・コールマンはTVドラマで有名になった役者だ。2度目の助演男優賞を得たマハーシャラ・アリの姿はHBO『トゥルー・ディテクティブ』で確認できるし、同賞の常連名優エイミー・アダムスサム・ロックウェルミシェル・ウィリアムズもTV仕事に就いた。極めつけには、hulu『Catch-22』におけるジョージ・クルーニーのドラマ復帰の報は大した話題にならなかった(※クルーニーはTVドラマ出演者から映画スターへの「成り上がり」代表格とされてきたオスカー俳優)。

 長編小説と短編小説はおなじ「文学」様式とされるのに、映画とTVは長らく異なるアートフォームと扱われてきた。しかし近年、人材の移動が目立っている。ケーブルやストリーミングによってTV側の予算は増え、表現も特定オーディエンスも多様化。視聴覚メディアの最上位層であるクリエイターや役者にとって、そこはスーパーヒーロー映画からの逃避場所なのかもしれない。今やパオロ・ソレンティーノ(HBO/CANAL+『ピウス13世 美しき異端児』)やグレッグ・アラキ(Starz『Now Apocalypse』)のような独創的な作家すら個性を無くすことなくTVショーで稼いでいる。スティーブン・ソダーバーグが先駆者となり、さまざまなフォーマットやジャンルや作風を行き来する新世代作家も誕生した。エイヴァ・デュヴァーネイは、アカデミー賞候補作(Paramount『グローリー/明日への行進』)から子供向け大作映画(Disney『A Winkle in Time』)、ドキュメンタリー(Netflix『13th─憲法修正第13条─』)や実際の事件にもとづくTVシリーズNetflix『ボクらを見る目』)まで製作している。キャリー・フクナガジョーダン・ピールもそうだ。

 リスク回避したい映画スタジオがフランチャイズと低予算ホラーに尽力する間《注1》、TV業界に資金が流入していた。NetflixにHBO……そしてストリーミングに参入するAppleとDisneyは膨大な予算を持っている。アカデミー賞からNetflix排除を求めたと報じられたスティーブン・スピルバーグは、このたびAppleと新作を製作する。彼がどう思おうと、映画スタジオが『レディ・プレイヤー1』に出資していた頃、ストリーミング企業は『マッドバウンド 哀しき友情』のディー・リースや『プライベート・ライフ』のタマラ・ジェンキンスといった素晴らしい監督を世に輩出した(※両人とも女性/2007年から18年間の人気ハリウッド映画1,200個のうち女性監督作品はたった4%)。2000年代がTVの黄金時代ならば、ここ数年は、TVが劇的に拡大し、アメリカのエンターテイメント業界の長年の空白を埋めていった時代だ。「TVショー」とひとくくりにした品質の一般化は不可能になった。

 映画とTVの違いは、品質でも予算でも画面サイズでもなく「長さ」だ。映画の名作『駅馬車』は96分、一方、おなじ西部劇でもTVドラマの『デッドウッド 〜銃とSEXとワイルドタウン』は36エピソードあった……TVのほうがゆっくり進行できる。おそらく、デヴィッド・リンチはこの30年を予想していただろう。1990年、ソープオペラと刑事ドラマを魔改造したような『ツイン・ピークス』を「独立した映画」だなんて思う人はいなかった。しかし、2017年、リンチは同作の新シーズン『ツイン・ピークス THE RETURN』を「18時間の映画」とした。それはケーブルのshowtimeで18エピソードにわたって放送されたにも関わらず──年の終わりには、批評家たちが選ぶ「年間最高の映画リスト」に入れられていた。

 リンチが自身の籍をフィルム・クラスに置いた2017年、『ツイン・ピークス』と同じくケーブル・ネットワークで放送された『ビッグ・リトル・ライズ』を映画として認識しようとする者は皆無だった。アカデミー賞常連であるジャン=マルク・ヴァレが手がけた、かなり作家主義的な感性だったにもかかわらず……そのエピソード構成には、ソープ・オペラと持続的緊張が共存していた。アカデミー賞もののパフォーマンスを披露する映画スターたちが演じたのは、ステレオタイプになりうる母親キャラでもある。この『ビッグ・リトル・ライズ』の出現によって、映画とTVの融合は決定的なものとなったのだ。本作は、映画界の権威のためにメリル・ストリープを必要としたのではない。メリルにしか演じられない役があったから彼女を要したのである。

コメント:『ビッグ・リトル・ライズ』はリースとニコールが「ハリウッドの女性表象・人材の欠如」を問題視して……つまりはフェミニズム的意志にもとづいて企画製作した作品なので、表現手法やキャラ開発ふくめ「特異」と論じられる状況は感慨深く、同時に考えさせられるところもあります。「ソープオペラ」って便利な言葉ですが、ここまで連呼されると「女性が作り女性が観るソープオペラ」として軽視されつづけた『グレイズ・アナトミー』あたりの再評価も大切な気が……。メリル様に関しては、彼女が激戦のエミー助演女優賞を逃すことこそ「TVの活況」を表す展開かもしれません。

コメント:「映画は格上/TVは格下」トピックは語り尽くされた感がありますが、Netflixは競合相手を劇場映画やケーブルテレビではなくゲームのFotrniteだと宣言してるんですよねぇ。そもそも消費形態として、劇場映画は外出しなくちゃコミットできない一方、Netflixビデオゲームは家の中もしくは持ち運び可能なディスプレイで利用できる。ゆえにNetflixが注力すべきは「ユーザーのディスプレイ視聴時間のとりあい」であり、そうなると強敵は人気ゲームになるのかなと。スーパーボウルのハーフタイムショーよりもFortrniteでプレイされた曲Billboardチャートで上位に君臨する時代ですし。

 

《注1》 アメリカ映画産業で需要が増えた低予算ホラー映画についてはこちら

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