『クロニクル』まるで少年犯罪ルポ
SF映画なのに、少年犯罪ルポのよう。恐ろしい程のリアリティを感じてしまった。
1.虐待と相関する転落
無職の父親は暴力を振るう。母親は重い病気で、優しいけれど息子に「強くなってほしい」と懇願する。のにちそれが呪詛になる。 こんな家庭環境の上、学校ではイジメられる。結果、少年は「常時カメラ撮影」という社会への防波堤を創る。
そんな少年が超能力を手に入れた。名前はアンドリュー。彼の悲劇的顛末は、ほぼ全て「父からの虐待」が起因だ。
アンドリューは超能力のおかげで親友を得た。人生は明るくなった。でも家庭は変わらない。「息子の教育費と母親の薬代のせいで金が無い」そう宣う父親。アンドリューは父に反抗し、超能力で制圧する。暴力に暴力で返したのだ。自分も、父と同じDV加害者となってしまった…。パニック状態に陥った彼は、弾みで親友を殺してしまう。
ここからは悲惨だ。罪悪感に耐え切れず、みるみる「頂点捕食者」思想に取り憑かれてゆく。“サイキックである自分は人間より偉いのだから、殺人しても何とも思わないはずなんだ”…最低最悪の「現実逃避」である。人を頼ることを知らない〈知らされなかった〉少年は、超能力と親友を得ても「現実逃避」しか出来なかった。そして、父親に母親殺しの冤罪を着せられ、最後の暴走に出る。
2.アンドリュー=凶悪少年犯罪を犯す被虐待児
物凄く綿密な「被虐待児の少年犯罪」を描く映画に見えた。主人公の「置かれた環境」描写がとても丁寧。彼は「人に見下されること」を極端に恐れ、「無様な自分」が露呈しそうになると暴力的になる。これって暴力虐待を受けた子供に見られる典型症状だろう。
家庭内で常に(暴力への)緊張を保ち続けたから、リラックスをすることが極端に下手。家庭内の弱肉強食理論から抜けだせず、外部でも緊張感・恐怖心を持続させてしまう。「弱い姿を見せると殺される」…このような刷り込みがあるから、無様な姿を友達に晒した際、ヒステリックになるのだ。「親友は欠点を見せても良い/駄目な部分を見せても親友は自分を肯定してくれる」…この確信を、親に安心感を与えられなかった子供が得ることは難しい。アンドリューは被虐待児のステロタイプではないか。このような背景があるからこそ、従兄弟マットによる生死を賭けた説得ー親友を超えて家族になろうとした宣言は、本作において、とても重要なのだ。
"Andrew, you're not alone up here. I'm here with you! I should've been with you all along, but I'm here now. We can stop this right now, you and me. Andrew, we can just fly away, we can get out of here. We can be family! "
3.社会派映画の側面
「アンドリューは浅はかだった」それだけでは済ませられない終焉。この悲しい後味の理由は、本作が被虐待児の悲劇を、あまりに丁寧に、あまりにリアルに描き切っているからだ。ファウンド・フッテージ手法が「被虐待児の少年犯罪」にリアリティを加算している。“あんな父親に育てられていなかったら…”そう考えずにはいられない。リンチ及び強盗だって、母親の薬を得る為。アンドリューは「悪人」ではなかったじゃないか。彼にマットの訴えが届かなかった原因は、彼自身の人格ではなく、父親による虐待である。
『クロニクル』は、良くも悪くも「マンガ的」と揶揄される。しかし、社会派たる程の問題提議、リアリティを携えているから名作なのだ。そう呈したい。主人公が父親に放った「お前のせいだ」という叫び。ラストの「アンドリュー、お前は本当はいい奴だ。俺は知ってる。」という友の言葉。全て真実だ。
参考資料
「保護された後の被虐待児」を綴るノンフィクション。本書に登場する「愛着障害」に苛まれる子供たちとアンドリューが重なってしまった。