『偽装の夫婦』立派な結論、しかし功罪の功しか描かぬ構成不備
国家ある絶望『タクシードライバー』と国家なき夢『ナイトクローラー』:70年代ナショナリズムと10年代キャピタリズム
『ナイトクローラー』と『タクシードライバー』を比較することで1970年代と2010年代のアメリカ社会の違いを考察する。こちらのサイトにあるように、2作は多くの共通点を持つ。車に乗る夜の仕事、鏡、孤独な一人暮らし、ダイナー、年齢差ある年齢……。そして、殺人罪を犯した主人公が国家に罰せられず、社会に評価されてしまうラストまで類似している。2作とも製作当時、1970年代と2010年代のアメリカ社会を色濃く反映している。『ナイトクローラー』は現代版『タクシードライバー』を志したと思われる。であるから、この2つを比較すると、70年代と10年代アメリカ社会の違いが見えてくる。10年代は70年代より一層アメリカ合衆国という国家の存在感が薄れているし、ナショナリズムの時代はキャピタリズムの時代となったような印象をもたらす。
【目次】
2−2.政府より金融が巨大となった『ナイトクローラー』時代
3.国家ある絶望『タクシードライバー』と国家なき夢『ナイトクローラー』
1.『タクシードライバー』が投影する70年代ナショナリズム
( 大統領候補の政治家をTVで見る『タクシードライバー』の主人公 )
続きを読む『わたしに会うまでの1600キロ』立派すぎた助手席の娘
ダメ人間讃歌ではない。「立派すぎた母と駄目な娘の物語」でもない。主人公の凋落は、「立派すぎた母と娘ゆえの悲劇」だ。自分の人生の運転席に座れなかった母親と同じく、主人公もまた「母の立派な娘」という助手席に乗り続けていた。1,600キロの横断は、彼女が人生の運転席に座る為の旅路である。
【目次】
- 母を最も心配していた娘
- 母に甘えられない娘
- 娘に甘えてしまった母
- 助手席から運転席への旅