『ウルフ・オブ・ウォールストリート』主人公になれないディカプリオ

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  レオナルド・ディカプリオという俳優は「いつも主人公になれない」気がする。

 『ウルフ・オブ・ウォールストリート』。欲に取り憑かれヒトでなくなった男は、狼にも牛にもなれず、地を這うミミズ以下の存在となる。墜落への道筋は丸刈り狂乱の時点で下されている。それでも欲望に身を任せたあとは家族にも仲間にも見放される。無傷の猛牛・ランボルギーニなんて幻想だったのに。 

 興味深いのは結末だ。犯罪者の金儲け術に目を光らせる人々のカット。スコセッシからのメッセージは「この映画を見てる貴方もまた欲望に魅入られています」。ディカプリオではなく普通の人々が主題を伝えるかたちになっている。その後のエンドロールで流れるのはマシュー・マコノヒー作曲歌。まるで映画に取り憑く亡霊のようなメロディー・ライン。……こうして纏めると、なんだかディカプリオの面目がやや立っていない。映画のメッセージを語るのは「欲望に魅入られている普通の人々」だし、亡霊のように映画に取り憑く人物はマコノヒー。結局、ディカプリオの役は、欲望をテーマにした映画の中で誰しもが持つ欲望に染まった「一例」でしかない。

(以下『タイタニック』『インセプション』『華麗なるギャツビー』ネタバレ)

 そもそも、レオナルド・ディカプリオの代表作で、彼がれっきとした主人公……映画のメインテーマ提唱を担う“主人格”だったことは少ないんじゃないか。タイタニック』『華麗なるギャツビー』の主人格はケイト・ウィンスレットトビー・マグワイア。ディカプリオは彼女/彼の回想の中でのみ存在している「夢の住人」だ。『インセプション』は「この映画が指す現実自体が幻想かもしれない」と観客を揺るがす、映画自体が主人格を担う構造だ。これまたディカプリオは「夢の住人」的。レオナルド・ディカプリオは、代表作の多くで「夢の住人」だったり「一例」だったりしていて「映画の主題を司る主人格」になっていないのだ。誰もが見とれるスーパースターなのに、映画のテーマを背負う主人格になれない。これが、ノミネート数に対し受賞打率が悪い一因だと感じる。稀有なスター役者だ。

 だからこそ、オスカーに輝くならば、きちんと「主人公」として機能した『J.エドガー』で獲ってほしかった。今回の主題の伝道者になっていないジャック・ニコルソン物真似芝居では(コメディ部門以外)厳しいでしょう。確かに『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』は「主人公になれない役者」の集大成としては完全に成立している。けどそれって空虚だ。