『羊たちの沈黙』レクター博士とクラリスが触れ合うシーンの元ネタ:殺人鬼と尼僧見習いの洗礼
トマス・ハリス『羊たちの沈黙』の登場人物であるハンニバル・レクターは複数の実在殺人鬼のモデルを持つ。その中の1人が、獄中からFBI捜査に参画した連続殺人鬼ヘンリー・リー・ルーカスである。平山夢明『異常快楽殺人』によると、どうやらこのヘンリーは『羊たちの沈黙』の主人公であるクラリス・スターリングのモデルにも会っていたようだ。ヘンリーとクラリスのモデルは、『羊たちの沈黙』の名シーンと類似した身体の接触も経験している。
【目次】
- ハンニバルのモデル:連続殺人鬼ヘンリー・リー・ルーカス
- クラリスのモデル:連続殺人鬼と触れ合った尼僧見習い
- ヘンリー・リー・ルーカスとハンニバル・レクターの共通点
1.ハンニバルのモデル:連続殺人鬼ヘンリー・リー・ルーカス
(獄中で油絵を描くヘンリー・リー・ルーカス)
ヘンリー・リー・ルーカスはハンニバル・レクターと同じように、厳重警備の獄中から警察捜査に協力する連続殺人者だった。彼はシリアル・キラーが世界一多いとされるアメリカ合衆国において史上最多となる360件もの殺害を犯したとされる*1。この余りの被害者の多さ、そして犯罪期間の長さによって、1983年の逮捕後、ヘンリーは「テキサス州ヘンリー・リー・ルーカス連続殺人事件特別捜査班」の正式メンバーに任命された。つまりは"自供する形で""自分の事件の捜査を"補助したのだ。この点が、自分と無関係の事件に助言を施すハンニバル・レクターとは異なる*2。
「殺人は息をすることと同じ」と述べたヘンリーは、何故丁寧に警察に協力したのか?本人によると、どうやらクリスチャンに目覚め、改心したことが大きいようだ。この信仰の最中に、クラリス・スターリングのモデルとなった女性が登場する。しかし、その前に、ヘンリーが収容された厳重警備の独房について説明する。
1983年8月末、ヘンリーは、テキサス州ジョージタウン刑務所の地下にある厳重警戒監房に収容された。最高レベルの警備措置が敷かれ、看守ですら彼の姿を目にすることすら禁止された。ヘンリーの独房は厚い鉄板と岩に囲まれており、外部との接触が可能となっているのは扉に付いている配膳用ポストのみだったという。ここに、彼にとってのクラリスが居た。
2.クラリスのモデル:連続殺人鬼と触れ合った尼僧見習い
(映画『羊たちの沈黙』FBIの男性に囲まれるクラリス・スターリング)
『羊たちの沈黙』の主人公であるクラリス・スターリングはFBIの女子訓練生である。彼女のモデルも又、女性のアマチュアだ。尼僧見習いのシスター・クレイミーである*3。彼女はキリスト教に基づき、拘置所で囚人達に寄り添うボランティア活動を行っていた。クラリスが男社会のFBIで"人気"があったように、クレイミーも又男性囚人達に慕われていたという*4。そこに1983年8月、ヘンリー・リー・ルーカスがやってくる。刑務所長はシスター・クレイミーを呼び出し、絶対にヘンリーに近づかないように念押しした。囚人たちに好かれる彼女の身に何かあったら暴動が起きかねない為だ。所長は全職員に「絶対にシスター・クレイミーをヘンリー・リー・ルーカスに近づけるな」と厳命した。しかし、勇敢で熱心なクレイミーの心は燃えていた。
1983年クリスマス・イブ。ヘンリーがジョージタウン刑務所にやって来た約4ヶ月後、シスター・クレイミーは愛娘を連れ、クッキー等の囚人へのプレゼントを刑務所へ運びに行く。静かなクリスマスの刑務所で、彼女はまず所内刑務所に行き聖書を持ち出す。そして看守が、家族に電話でクリスマスを共に過ごせないことを謝罪している隙にヘンリーの牢獄の前に立ったのだ。2人の初対面シーンを平山夢明『異常快楽殺人』から引用する。
「ミスター・ルーカス、いらっしゃいますか」渾身の力を振り絞って声をかけた。
「ええ、いますよ」房内の音は一切、聞こえてはいなかった。唐突に、蓋が開いた。
そこにはポッカリと空間に”穴”が空いているようだった。いや、ガラスの目をもっと憔悴し切った男の顔が薄暗い明かりのなかに浮いていた。
「聖書を……。お入り用でなければ持ち帰ります」
「ありがとう」
男の顔には何の表情も浮かんでいなかった。クレイミーは、聖書を蓋の中に押し込んだ。聖書を受け取った後でも蓋は開いたままだった。
「私はシスター・クレイミー。これは娘のキャシーです」
男の視線が微かになごんだ。
「こんにちはキャシー」
キャシーは照れながらも、「こんにちは」と言えた。
「噂に聞くシスター・クレイミーに会えるとは思いませんでした。聖書は欲しかったのです。大切に扱いますよ」男の目に涙が光った。
「良いクリスマスを」クレイミーは、ここにはまた来ることになると確信した。
―引用元:平山夢明『異常快楽殺人 (角川ホラー文庫)』p.120-121
ここからのシスター・クレイミーの機転は「ジェームズ・ボンド並」だったという。所内の隙を見てはヘンリーの房を訪れ、監視カメラの死角から聖書を語り、彼の言葉に耳を傾けた。1か月後、ヘンリーは真剣な眼差しで彼女に「洗礼を受けたいのです」と言った。洗礼は、与える者が受ける者の額に十字を描き祈らなければいけない。クレイミーは「わかりました。良い時期だと思います」と返す。ヘンリーは目を閉じ、クレイミーの手が己に触れるのを待った。このやり取りの5分後、4組の看守が飛び込んで来た時には全てが終わっていた。シスター・クレイミーは、厳重警備の独房前の黄色いラインを超え、ポストから腕を完全に房内に差し入れ、全米史上1の連続殺人鬼の身に触れたのである。神の子となったヘンリーは自供を始め、獄中から捜査に助言する立場となった。
3.ヘンリー・リー・ルーカスとハンニバル・レクターの共通点
(映画『羊たちの沈黙』でレクターとクラリスが触れ合うシーン)
『羊たちの沈黙』でハンニバルとクラリスが触れ合うシーンは、2人が出会った独房ではないし、ハンニバルは洗礼を乞うてはいないし、それどころか自ら相手の指に触っている。しかし「殺人鬼と会話した異例の見習い女性が独房を介して身体を触れ合わせたこと」は同じだ。以下にハンニバルとヘンリーの共通点をまとめる。
【ハンニバル・レクターとヘンリー・リー・ルーカスの共通点】
- 連続殺人鬼
- ペンすら入れていけない厳重警備独房に収容された
- 独房の中から警察の捜査に協力
- 独房の中で趣味を嗜んだ(レクターは読書、ヘンリーは油絵制作)
- 独房の中からアマチュアの女性と交流
- その女性は刑務所長から厳しく注意された
- その女性は規則を破り交流した
- その女性と身体を接触させた
ヘンリーとクレイミーが触れ合った1984年1月の4年後、トマス・ハリスによる小説『羊たちの沈黙』が刊行される。
参考文献
本書には、もう1人のハンニバル・レクターのモデルであるアルバート・フィッシュも紹介されている。アルバートは知能が高く裕福そうに見える老人だが、食人を繰り返す連続殺人鬼だった。又、『羊たちの沈黙』のバッファロー・ビルのモデルの1人となったエドワード・ゲインについても綴られている。尚、1911年初版の為、今日では間違いとされる記述も存在する。