『博士と彼女のセオリー』崩壊した"円"と現代に残る"直線"

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 最初からすれ違っている夫婦の話である。画面に着目すると、とにかく「円」が多い映画で、その暗喩は執拗な程に出現する。ブラックホール、螺旋階段、瞳孔、コーヒー、夫婦の戯れ、チョーク、池作り、車椅子の周回、ボール、模型、電球、メリーゴーラウンド…。そもそも本作は最終シーンが序盤シーンに着地する構成。この映画自体が「円」なのである。では、その「円」は何を意味するのか?一つは夫婦の「バランス」ではないか。最初からすれ違っている夫婦は円周率の如く「バランス」を成立させ愛を育むが、そのサークルの中に外部者を居れてしまった途端に「バランス」は崩壊を始める。ホーキングが発見したブラックホール理論をなぞるように。

1.夫婦の円周率バランス

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 ジェーンとスティーヴンは尽く「異なる存在」だ。二人の友人や家族を見てみよう。夫婦は同じ大学に通えど、毛色の違うグループに所属している。カフェで屯うジェーンの友達はオタク・ルックなスティーヴンをせせら笑う。一方で、スティーヴンの家族は初対面のジェーンの趣向を全否定しジョークにする。ジェーンとスティーヴンにしても著しく思想が異なっている。スティーヴンは無神論者だ。ジェーンは英国の伝統的な思想を持っており、イングランド国教会の信者。本作に、「周囲に否定しても純愛を育む二人/違いを乗り越えようとする二人」といった、美しい努力を喧伝する情熱は無い。ただ全然違う二人が恋して結婚する。

 ここまで異なる二人(そして障壁を一々乗り越えようともしなかった二人)が、何故夫婦にまでなったのか?それは、彼等が「バランス」を成立させたからだ。【妻の信仰を否定する夫/夫に否定されても信仰を曲げない妻】…この「バランス」。これこそ本作で最も大事な「円」だ。キャンパスの庭で手を取り合って回る二人は、異なる思想同士が支え合う見事な円周率を成立させたのである。 本来ならすれ違っていくはずの方向性を持つ二人が、手を取り合い、軸に身を任せて周回していく、危うげなバランス。2015年現在、円周率はまだ未解決問題を抱えている。二人が大学キャンパスで円周を形成した1960年代に至っては『アペリーの定理』すら出現していない。その円周率によって恋愛関係を成立させているジェーンとスティーヴンは、一つでも数字が違ってしまえば崩壊の一途を辿る関係だ。であるから、終盤、【妻の信仰を否定する夫/夫に否定されても信仰を曲げない妻】というバランスが完全に崩壊し、【妻の信仰を肯定する夫/夫の肯定を気づかいだと認識した妻】という"新"バランスが成立した時、二人の婚姻関係は終わる。

2.二人の「円」に入った二人 

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 ジェーンとスティーヴンの「円」の中に入り、その「バランス」を崩壊させた二人とは勿論、それぞれの再婚相手に他ならない。牧師と介護士だ。実は、「ジェーンとスティーヴン」より、「ジェーンと牧師/スティーヴンと介護士」の方がそれぞれの思想的にマッチした組み合わせである。

 後半の情報量はスティーヴンよりジェーンが多いので、彼女を深掘りしよう。まずジェーンはイングランド国教会の信者である。多忙な生活で疲弊しクマを溜めた時、母親に聖歌隊を勧められる。それに対し「伝統的英国人の発想ね」なんて返すが、実際、教会に行った事で彼女は元気を取り戻す。発言通りジェーンは「伝統的な英国思想」の持ち主なのだ。無神論で世を騒がせ、出会い頭から妻の信仰を否定していた夫よりも、牧師の方が思想面で相性が良いのは歴然である。

 次に介護士だ。前章で述べた様に、ジェーンとスティーヴンの婚姻関係は【妻の信仰を肯定する夫/夫の肯定を気づかいだと認識した妻】という新バランスの成立で幕を閉じる。その際、別れの句となったのは「介護士をアメリカ行きに誘った」という報告だ。描かれてはいないが、介護士が居なかったとしても、ジェーンは夫の渡米を快く承諾しなかったと思われる。新たな車椅子が音声を放つシーンで、ジェーンは咄嗟に「アメリカ人(アメリカ発音)じゃない!」とクレームをつける。アメリカ発音も、新世界のアメリカも良くは思ってないんだろう。正に当時の英国の伝統的・保守的価値観。アメリカで研究を行いたかったスティーヴンが、ジェーンから離れ(渡米に難色を示さなそうな)介護士に向かったのは自然だ。

 他にも「夫婦のバランスが崩壊していく様」が描かれている。介護士を雇った時、ジェーンは介護士の話を遮って指令を下す。妻、そして雇用主としてジェーンが命令するのは自然だろう。しかし、時間が経つと、介護士の方が、夫に話しかけるジェーンに「今は髭剃りをしているから待ってください」と言い放つ。「スティーヴンとの距離」は、既にジェーンより介護士の方が近い事が示される。又、スティーヴンが子供達と追いかけっこをするシーン。台所から夫子を見るジェーンは、何かの本の内容を紙に書き写している。個人的な書き物をするのに良い環境とは決して言えない。牧師と再婚した家での書斎と比べると、その差は明瞭だ。

  本作は言ってしまえばW不倫映画だが、印象は一貫して爽やかだ。その理由は演出だけでなく【元から思想面で不一致だった夫婦が円満離婚して"結婚すべき相手"とそれぞれ再婚したシナリオ】が大きいだろう。博士と彼女は最初から「絶対的な運命の相手」ではない。「夫婦として適した相手」は介護士と牧師なのだ。スティーヴンとジェーンは愛し合って二人なりの「バランス」…「円」を共有したが、婚姻関係に限れば、それは有限だったのだ。消えゆくブラックホールのように。

  では、二人の関係はそこで…「円」が消滅して…終わりなのだろうか?断じて違うだろう。それはラストシーンで明言されるが、それとは別に確かな「直線」が存在する。

3.博士と彼女の決して消えぬ直線

   英国王室の庭園で冗談を飛ばし合うジェーンとスティーヴンは、婚姻関係を無くしても対等で円満である。そしてホーキングが子供達を指して「あれが僕らの作ったものだ」と言って終わる。恋愛関係から発生した「円」は縮小し形を変え、子供達を内包して残存している……、言ってしまえば定番なオチだ。

   寧ろ本作で最も重要だったのは、病院でのシーン、そしてその後のボードを掲げるシークエンスではないか。あそこには「円」でなく「直線」があった。夫の誘いを断り、牧師と共に子供達をキャンプに連れて行き、その夜に不倫してしまったジェーン。その頃スティーヴンは生命の危機に陥る。駆け付けたジェーンは医師に「苦しませるより安らかな死を」と薦められる。唐突で重大でバイアスの効いた決断を迫られるのだ。夫の苦しみを間近で見てきたジェーンは、彼に更なる痛みを与える事の意味を一番知っているだろう。そして夫への愛にしても、以前ほどの熱量は持っておらず、優しく思想が合う牧師に惹かれている。不倫してしまった罪悪感から逃げたい気持ちだって無かったとは言い切れない。だが、彼女は間髪入れず延命治療を望むのだ。そして牧師と離別し、言葉を喋れなくなった夫に丹念にボードを掲げる。その目に何の迷いも無い。まるで"当然の前提であるかのような"覚悟だけがある。ここではないか。直接的な描写をせず、ある意味で浮遊を続けてた『博士と彼女のセオリー』が、地に足をつけて、確かなギラつきを見せたのは。

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   ジェーンは何故、なんの躊躇も無く延命治療を望んだのか。可能な推測は様々だ。例えば、当時のイギリス国教会が人間の手による尊厳死を(延命治療より)推奨していたとは考え辛い。不倫による罪悪感も要因に挙げられる。しかしながら、ボードを掲げるシーンでの「目」を思い出すと、理屈では片付けられない決断だと感じられる。「絶対に彼の生命を絶たせてはいけない」という確信。「絶対に彼を研究に復帰させる」という執念。それはきっと、夫婦関係というよりも、もっと大きな、そして同時にパーソナルな事柄に基づいてる。スティーヴン・ホーキングは偉大なる天才であり、彼の為にも世界の為にも絶対に失ってはいけない人物である」。観客は既に知っている真実を、あの時のジェーンは確信していたのではないか。それはある種の狂気とも言えよう。「夫が確実に受ける苦しみ」より「その先の夫の研究人生」を即座に優先しているのだから*1。しかし、実際に、あそこで彼女が延命を選択したからこそ、スティーヴン博士は偉大な功績を残し続けている。

  ジェーンの狂気が世界に様々な発見を与え、この映画までも作ったのだ。あの病院とリハビリ場でのシーンは、現代に、そして映画館の観客に地続きとなっている。婚姻関係や恋愛感情や家族への愛など吹っ飛ばした狂気的なシーン。あれこそが「円など関係無い二人の強固な繋がり」を示したカットだ。ジェーンのスティーヴンへの想いは、恋愛や夫婦や子供、そして「円」だけで成立している訳ではない。スティーヴン・ホーキングの才能への、何の混じり気も無い絶対的信奉。それを認識し受容してるであろうスティーヴン。この「結び合った直線」こそ、永遠に失われない二人の確かな絆だ。ジェーンとスティーヴンの「円」は崩壊してしまったが、二人が結び合った「直線」は今も残り続けている。 評論家に指摘されているように、複数の欠陥を持つ作品だが、私はこのシーンだけ忘れられない*2。「ホーキング博士の功績を描いていない」とう批判に対してすら、その使命は彼女の眼差しだけで完了してるとさえ思えるのだ。映画自体の作風とは対極の表現を2カットで通用させるのだから、フェリシティ・ジョーンズは末恐ろしい役者である。