『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』ミセス・ロビンソンに火炙りを

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 病理に満ちた映画である。劇中描かれるのは、過激な宣伝から想起される『マイ・フェア・レディ』のような"古典的"恋愛関係ではない。クリスチャン・グレイは、オールド・カーが好きと言う恋人の愛車を勝手に売り払い、ピカピカの高級車を押し付けるような男だからだ。映画はそんな彼を強引で素敵な男性とは映さず、ヒロインに驚愕と諦念の表情をさせ、叱咤させる。類似作を挙げるなら、作中で挙がる『卒業』の方が近い。グレイの人格は幼少時代の複数の虐待により形成されており、『卒業』のテーマ『Sound of Silence』の歌詞のような「影」を抱えている。

1.グレイと3人の母の肖像

 クリスチャン・グレイの人生は病理に満ちている。売春婦の実母に火炙り等の虐待を施され、4歳の時に自殺される。原作によると、警察が発見した際、グレイは4日間彼女の遺体と二人きりの状態だった。幼き彼の脳は、彼自身に実母の顔を忘れさせる。解離のような症状だろう。その後、富豪一家に養子にされ、「育ての両親に求められる良い息子」を演じ続け、エリート教育をこなし続けた。此方は「機能不全家庭下におけるヒーロー」に近い*1。家族の期待に応える事に人生を賭けていたグレイは、14歳で母親の親友に性的誘惑を受ける。ミセス・ロビンソン*2と呼ばれる母親の親友は、まだ中学生の彼にSM趣向性交を叩き込んだ。これは児童性的虐待に該当する。グレイは彼女とのSM関係によって「初めて自由を得た」と述べ、契約関係が切れた現在でも彼女の事を褒め称える。幼き自分を性的従属者とした者を、まるで善き母親のように扱うのだ。後述するが、ミセス・ロビンソンに対しストックホルム症候群を生じさせているようなシーンが存在する。

 ミセス・ロビンソン含む「3人の母」を経たグレイの現状はどうだろうか?己を火で炙った実母の悪夢に苛まれ続け、家族に遠慮し続け、人を信用できず、恋愛恐怖症で、契約書で恋人の生活を徹底管理しないと落ち着けない恋愛恐怖症のアダルト・チルドレンではないか。育ての母親は情報が少ないから保留するが、彼の実母とミセス・ロビンソンは、彼の人生を大きく損なわせた。しかし、グレイは、何故かミセス・ロビンソンに心酔している。ヒロインのアナに交友関係を疎まれても、「本当に彼女は良い友人だから気にするな」と感情的反応を示す。このシーンは作中で唯一浮いている。己の全力を賭けてアナを追い求めるグレイが、彼女を拒絶している。アナよりもミセス・ロビンソンを優先させる違和感は、ストックホルム症候群の不気味な存在を匂わす。彼はそうやって、初めて愛せたはずのアナを、自身のストックホルム症候群によって失う事となる。

2.影からの卒業

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 グレイが「自分には50の影がある」と告白するハイライト・シーン。そこでアナは「貴方の影を見せて」と返す。色んな闇を抱えているのはわかったから暗部を全て見せてぶつけてこい、と宣言している。年上彼氏にリードされるか弱き女性どころか、所謂"オカン"的姿勢である。そう言われたグレイは、彼女を断罪するかの如き性行為を彼女にぶつける。心身共に傷つけられたアナは別れを告げる。

 「50の影」が意味するのは、グレイの中でアイデンティティが確立させていない事、そしてそれ故に矛盾した行動をとってしまう傾向を指す。影とは自分ではない自分であり、愛する女性を何故か罰してしまう矛盾した自分なのだ。彼の内面を考察する。恋人の生活を徹底管理して不安を軽減させる「契約」に拘る面は、実母に蹂躙され続け、最後は自死によって本当に"見捨てられた"経験に起因する。恋人を"出来る限り"自分で管理し、逐一監視しないと、所謂見捨てられ不安に耐えられない訳だ。終盤、彼はその契約管理制度を捨ててまでアナと共に居たい自分、それ程までに彼女を愛している自分に気づく。つまりは実母のトラウマを(ある面で)乗り越えてまでアナを求めたのだ。しかし、徹底管理契約は捨てられても、最後の濡れ場で披露した"性交相手を断罪するようなサディズム"だけは捨てられない。

 グレイが最後まで捨てられなかった"断罪するようなサディズム"。それは「女性を罰したい欲求」が非常に強い。しかし、この「断罪欲求」は、もしかしたらSM性癖とは別の物かも知れない。彼自身をも苦しめる彼の断罪欲求は、本来はミセス・ロビンソンに向けられた物ではないのか?性癖とは違う所にある、人生を破壊した者への怒り。そうだとしたら、アナにぶつけるのは見当違いだ。対等な関係であるはずの恋人に「理想の保護者(断罪を引き受け肯定してくれる母親)」を求めたのだから拒否されて当然である。グレイ自身をも苦しめる「愛する女性を何故か罰してしまう矛盾」。その親玉は「自身を虐待したミセス・ロビンソンに怒れず崇拝してしまう矛盾」だとしたら……。グレイは、ミセス・ロビンソンに対するストックホルム症候群によってアナを失ったのだ。ならば、ミセス・ロビンソンに傷つけられた自身を認め、ミセス・ロビンソンにきちんと怒るべきである。そうしないと彼は「矛盾」を抱え続け、「影」に苛まれ続けるだろう。ストックホルム症候群から解放された暁には、やる事は一つ。それこそ『卒業』のように、ミセス・ロビンソン含む"大人たち"に糾弾されようと、アナの手を取って未来へ進まなくてはいけない。そこが親の呪いにかかった二人の子供が到達すべき地平だ。

おまけ.ミセス・ロビンソンの娘アナスタシア

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  「親の呪いにかかった二人の子供」と表現したように、アナスタシア・スティールも又、ミセス・ロビンソン症候群だ。彼女はミセス・ロビンソンの娘なのである。直接的に、ある面では比喩的に。

 彼女の恋愛恐怖症的兆候は、離婚した母親への嫌悪が原因だろう。原作によると、彼女の生物学的父親は、彼女が誕生した翌日に事故死した。未亡人であった母親の再婚相手レイがアナの父親だ。アナはレイの事を良き父として慕い、離婚後も連絡をとっている。母親はレイとの離婚後、他の男性と結婚。アナは第三の父と馴染めず、実家に帰っても部屋に引き篭もってしまう。そもそも第三の父は義娘の前で妻に「俺に愛してもらえるなんてお前は幸せだ」なんて吐く男である。母親も、娘の卒業式よりも「夫の不倫を防ぐこと」を優先し、その旨を娘本人に告げる人物だ。アナの精神的不調を察した母親が「女同士で話しましょう」と"お決まり"の台詞を吐くシーンがあるが、その"お決まり"である約束は結局果たされない。このように、本作は母性幻想…母は子を無条件に愛し、子は母の愛に救われるといった幻想…を真正面から否定している。父親にしても、アナが慕うレイはアナを救えてはいないし、そもそもアナはレイに助けを求めない。グレイの二人の父に至っては存在感が無きに等しい。父権幻想…父は子を逞しい腕で護り、子は父に助けを求めるといった幻想…にも最初から期待していない。ただただ親の呪いを背負う子供二人が彷徨い続ける。親の力を信頼できない子は、親に頼れない孤独な闘いを強いられる。

 アナは母親のような、つまりは夫との契を護らないミセス・ロビンソン的側面を持つ人間にはなりたくないんだろう。恋愛によって自分が母に近づいてしまう感覚を恐れていたのかもしれない。グレイとの出会いで彼女の恋愛恐怖症は解消されたように思えるが、述べに述べたように、このグレイは大きな問題を抱えている。

 グレイもアナも「ミセス・ロビンソン的母親」に悩まされている点は共通しているが、その苦悶との向き合い方は異なる。アナは陰でミセス・ロビンソン的母親を批判する程度の強さは持ち合わせている。グレイの方はミセス・ロビンソン服従したままだ。ここには、グレイが保護者に与えられた物理的虐待はアナのそれを遥かに超える物、という問題がある。どんどん彼女に縋る従属者のようになってゆく彼は、結局また独りになってしまう。

余談

 小説を大幅に変更したと原作者から批判される監督が降板しそうな為、親の呪いを抱える子供達による『卒業』的『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』は本作で幕を閉じそうである*3。秀逸な映画とは言い難いが、個人的には惹き付けられる異様さがあった。商業主義的広告を保持する十代ターゲティングの恋愛大作で、ここまで母性、父権の幻想に期待しない姿勢は現代的と言える。中だるみを繰り返し地に足がついてない映画構成は、行き場所の無い病理の亡霊、又は親に破壊された子供達の「影」のようだ。グレイの最初の両親が、もっと保護者としての条件をクリアーしていたなら、彼が得たはずの希望、喜びといった人生の「光」は、50個なんてものじゃなかっただろう。

 

 

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*1:通信企業CEOの座も、個人的野心の成果ではなく、家庭内ヒーローであろうとし続けた結果であろう

*2:チャールズ・ウェップの同名小説を原作とした映画『卒業』の登場人物

*3:サム・テイラー=ジョンソン監督が原作以上にアダルト・チルドレン要素を色濃く演出したと推測される。Fifty Shades of Grey director 'threatens to quit sequels over feud with author' - 3am & Mirror Online