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偽装の夫婦★★★立派な結論、しかし功罪の功しか描かぬ構成不備

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 『偽装の夫婦』の結論は多様性肯定だ。性的関係が無くとも、互いが「家族になりたい」と思ったなら家族になって良い。この提唱は異性愛恋愛至上主義とは対極にあるだろう。しかしながら、この提唱は成立しきれていない。提唱自体を発する地盤となる作品自体のバランスが欠陥を来たしてしまっている。主人公2人は「選択」をしたわけだが、そこに付き纏う「功罪」の「功」部分しか描いていない。

【目次】
  1. 『偽装の夫婦』の結論:「そばにいたい」気持ちを肯定する家族観
  2. 『偽装の夫婦』2つのテーマ アイデンティティと恋愛模様
  3. 選択による功罪の功しか描かぬ最終回

1.『偽装の夫婦』の結論:「そばにいたい」気持ちを肯定する家族観

  ドラマ『偽装の夫婦』の結論は異性愛優越主義でも恋愛至上主義でもない。私には本作のラストがこう言っているように思えた。

「夫婦&夫夫&婦婦間に性的興奮&性的関係は必須ではない。そばにいたい、家族になりたいと互いに思ったのなら家族になって良い」

 嘉門ヒロと陽村超治は「性的関係の無い家族」を選択した。この選択は珍しくもないだろう。例えば、性的関係を結ばないかたちで家族/夫婦/夫夫/婦婦関係を自認する無性愛者も存在すると思われる。又、映画『ふたりのパラダイス』で描かれたような、フリー・セックスを実践するコミュニティ内でも、お互い複数の集団構成員と性行為を楽しみながら家族関係を結んでいる人たちも居るはずだ。他にも、映画『イヴ・サンローラン』では、主人公が長年交際した恋人に「他に好きな人ができた。でも一生の男は君だと思っている」といった台詞がある *1

 ドラマ『偽装の夫婦』が訴えているのは「そばにいたい」と互いに思ったならそばにいていい、「家族になりたい」と互いに思ったなら家族になっていい、なる多様性肯定論ではないか。性自認が同じ同性同士でも、セックスは介さない関係でも、当事者たちが家族になりたいならなって良い。その選択に他人が口を出す必要性が生じるパターンは極稀だろう*2。……ということで、個人的には結末自体への拒否感やマイナス感情は無い。しかしながら、結末への持って行き方、いわば脚本の畳み方に欠陥があり、作品全体のバランスに支障を来たしてしまっている。

2.『偽装の夫婦』2つのテーマ アイデンティティと恋愛模様

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 『偽装の夫婦』最終回は、9話から主人公2人が深い仲となった水森しおり、弟子丸保の「後処理」がおざなりすぎる。そもそも『偽装の夫婦』のメイン・テーマは、8話までは『主人公2人のアイデンティティ』であった。それが9話になって突然『恋愛模様』へとガラリと変わる。

 『主人公2人のアイデンティティ』がメイン・テーマであった1~8話をおさらいしよう。ヒロは親子関係が原因となって自己肯定感が極端に低く、本音を表現できないアダルト・チルドレンとして描かれていた。超治は自己肯定感/感情表現はキチンと機能しているように見えるが、ゲイであるから母親にも職場にも虚偽を重ね続けている。8話まではヒロ、超治がそれぞれ人生の衝撃を乗り越えるパーソナルな物語となっている。キーとなっているのは「既存の家族」だ。ヒロは郷田家、超治は母親との問題を解決する。

 『恋愛模様』がメイン・テーマとなった9話からは、作品の雰囲気が変容する。ヒロと超治には「新たな同棲相手」が出来ている。2人とも「偽装結婚破綻で心的ダメージを負った為、その反動の躁状態で交際に乗り切った」印象を受けるが、まぁ2人はそれぞれ付き合った。でも違ったのだろう。ヒロも超治も「自分たちは性的関係を結べないから夫婦になってはいけない」と思い込んでいただけで、実は「そばにいたい」「家族になりたい」と思い合っていた。多くの経験で「もう嘘は吐きたくない」「自分に嘘を吐くことは結果的に他人も傷つける」と知った2人は、勇気を出してそれぞれのパートナーに別れを告げ、性的関係なき婚姻関係を結ぶ。

3.選択による功罪の功しか描かぬ最終回

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 こうして振り返ると、ヒロと超治がそれぞれパートナーに別れを告げたのは仕方ないことだと思える。「そばにいたい」という気持ちは理屈で抑えられる物ではないだろうし、ヒロの言うように嘘を吐き続け元のパートナーと付き合い続けた方が結果的に相手を傷つけるだろう。だが、とにかくこの「仕方なさ」の描き方のバランスが悪い。確かに「好意」というものは理屈ではどうにもならない。人の「好意」を抑えつけることは中々難しいし、そもそもやるべきではない。「好意を抱くこと」は「仕方のないこと」だ。だからこそ、そのような「仕方なさ」から生じる「好意による選択」には「功罪」が付き纏う。『偽装の夫婦』の最終回などその代表例だろう。しかし、ドラマは「功罪」の「功」の部分しか描いていない。

 しおりと保の去り方は、2人が元々「いい人」だった為に「とても優しい」怒りで終わっている。しおりと保があぁして去ることは、キャラクタの設定的には納得できる。しかし、脚本がしおりと保、果てはヒロと超治を"描かなすぎ"だ。結構な数の視聴者は、ヒロと超治、それぞれが「選択の責任」を負う展開を見たかっただろう。というか、ヒロも超治も、人格設定的にしおりと保に対し大きな罪悪感を抱いただろう。ドラマは大きな罪悪感を抱いたヒロと超治ーー選択の罪過を負ったヒロと超治の姿を映すべきだ。再び同棲を始めたヒロと超治が、「元パートナーに決して許されないことをしてしまった」「だからこそ(不安だけど)君だけは大切にしたい」と一言二言シリアスに発するだけでだいぶ印象やバランスは変わったはずだ。又は、しおりと保に「頭では理解しているし2人の幸せを願っているけど、貴方を愛しているからこそ許すことが出来ないし、この先許せるかもわからない」と語らせても良かっただろう。ヒロと超治が互いに惹かれ合うのは「仕方のないこと」である。それと共に、しおりと保が「好きだからこそ許せない」状況に陥り、その事実を相手に発することも「仕方のないこと」だ。

 『偽装の夫婦』最終回は、「選択における功罪」の「功」の部分しか描いていない。しかし、功も罪もあるのが選択だ。「選択」は「優劣をつけること」と離反ができない。だから互いの幸福を願い合ってる人間同士でもそれぞれの「選択」によって悲劇が起こりうる。最終回のヒロと超治は「仕方ない/しかし残酷な選択」を採っているのだから、「選択における功罪の功しか描かない脚本」はミス・チョイスである。『家族になりたいと違いに思ったなら(法的保証/性的関係が無くとも)家族になって良い』という提唱は立派だが、テーマを発するに足る地盤が作品自体に欠如している。つまりは作品自体がテーマに追いつけていない。8話で終わったのなら王道なる成長譚で追われただろう。9話で幕を閉じたとしても、未来を視聴者に想像させる余韻あるラストになれた。しかし、最終話は脚本が破綻している為、作品全体のバランスを崩す幕切れとなってしまった。ドラマ『偽装の夫婦』の問題はジェンダー等の思想的な物ではなく、単純な構成不備ではないか。

Grade:B

*1: この場合、恐らくは“恋愛として好きな相手は別に居るが、一生を添い遂げる家族としての相手は君だと思っている”という意味

*2:一応「極稀」な例として想定しているのは、日々殺人を文化とする家族集団等である。そのようなケースだと、民主主義の先進国では、他人が口を出す、を超えて国や警察が介入するだろう