『セッション』梶原一騎イズムの異常者バトル

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 梶原一騎テイストの「異常者vs.異常者」映画である。実際とは異なった音楽描写も、なんだか「いい話」風に終わるハラスメント描写も、梶原一騎巨人の星』系統と捉えればそう気にならない。才の無い異常者・指導者と、才のある異常者・生徒が出逢い、“偶然”好相性を成し共振する物語なのだが、組み込まれている3要素「本格音楽映画」「梶原一騎イズム映画」「『ソーシャルネットワーク』的映画」の噛み合わせが悪く、3つのどれにも突き抜けられていない中途半端さを感じる。個人的ベストシーンをあげるとしたら、主人公の父親が愛する息子を喪ったシーンだ。

1.似ている2人の異常者

 主人公アンドリュー・ネイマンは、元からテレンス・フレッチャーに似た「異常者」の気質を持っている。それは「煩悶なき加虐」と「スペック主義」だ。

  • 煩悶なき加虐
 父親との映画鑑賞シーンで象徴されるように、アンドリューは「嫌いなレーズンを避ける生き方」をしている他の生徒と関係を結ぼうとしないし、学校で嫌われていても気にしない。独りで籠って練習している印象的なファーストシーンは彼の立場も示しているだろう。そして、その「嫌いな物を避けて通る自分」にさほど葛藤していない。『ソーシャル・ネットワーク』のマーク・ザッカーバーグはコミュニケーションについて悩んでいたが、アンドリューは煩悶すらせず、寧ろ「友達が居ない自分」を肯定しながら「自分を批判してくる他人」を攻撃している。この加虐する自己に煩悶しない特徴はフレッチャーと共通する。
  • スペック主義
 アンドリューもフレッチャーもスペック主義に囚われエゴを増長させている。アンドリューは専攻が決まってないデート相手に「やりたい事は無いの?」と問う割に、自分が入学理由を聞かれたら「学歴ランク」しか答えられない。親戚での食事会でも「学歴ランク」を盾に気に食わない相手を攻撃する。「ランク」以外の理由は大して出せないまま、「じゃぁお前はスカウトされたのか」と指摘されると不機嫌になり退席する。レーズンを避けるように。そんなスペック主義のアンドリューは「音楽をやる理由」を結局明かさない。序盤でフレッチャーに「我々はお互いに音楽をやる理由があるだろう」と会話するのだが、結局提示されない。退学後に音楽が楽しかった子供の頃の映像で涙するが、終盤へのミスリードだろう。後述するが、彼は、あの“映像の思い出”も“親子愛”も“彼女への恋愛感情”もフレッチャーに挑戦する為に捨てた。

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 アンドリューから感じ取れるドラミング動機は「スペック主義」/「ウザい奴への復讐心」程度だ。これは『セッション』が音楽への愛を持たないと言うより、本作が主人公を愛に満ち溢れた人間とは描いていない事が大きいだろう。 アンドリューもフレッチャーも、スペックに囚われ身勝手に「エゴ」を増長させた事で、かつて持っていたはずの「音楽への愛」を置き去りにしてしまっているのではないか。二人が完成させるのは愛なき音なのだが、愛が無いからと言ってその音の価値が低いという訳ではない。

2.異常者になる覚悟 

 終盤までのアンドリューはハラスメント被害者だ。幾ら「レーズンを避ける生き方」だからと言って、ハラスメントを受ける義務は無い。フレッチャーが加害者である。ハラスメント理由にしたって、「下手」と明言する行為と暴力行為は全く別の物だ。罵詈雑言を吐いておいて生徒に「Shit」と言われたら激怒したり、元生徒の自死を事故死に改変して「良い話」としてナルシズムに浸ったり、復讐として違う発表曲を教えたりと、指導者として才能の無い、矮小な異常者である。だが映画はここで終わらない。被害者であったアンドリューは、そんな指導者が居る「異常者」の舞台へと自ら乗り込むのだ。
 指導者を真っ当な形で罰したアンドリューは学校を辞める。元主奏者のように他の大学への入学意欲を見せていたようだ。彼は父親と「愛」のある生活を取り戻した。しかし、元恋人に期待を裏切られ、指導者に屈辱を受けた彼は、自ら「異常者」の世界へ入る覚悟を決める。ここが受動的に「異常者」の世界に入った前半とは異なる。舞台で楽譜をすり変えられた彼は袖へ引き下がり、愛し合う父親と抱擁する。だが、彼は父の想像を裏切る。覚悟を決めて「異常者」の舞台に舞い戻り、自ら「異常者」として「異常者」と闘い、最後は「異常者」と共振する。【才の無い異常者・指導者と、才のある異常者・生徒が出逢い“偶然”好相性を成し共振する物語】として幕を閉じる。
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 舞台の幕から覗く父親の目を映すカット。あれは「愛する息子」を喪った父親の姿だ。舞台に居るのは、彼が愛した…また愛し合った「息子」ではなく、「異常者」という、「天才」という「化け物」である。父は、息子を賤しんだ異常者と息子が同じ異常者である事を目の当たりにしたのだ。この異常者バトル映画において、彼が最たる被害者に思える。この映画は、「子の喪失」を巧みに描いている。

参考資料