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ニワカを極めるブログ

『サラの鍵』過去を知らなければ、未来は作れない。

 『最強のふたり』はフランス映画らしく、実話・障碍・格差を扱いながらも「感動しろ」という演出を最後まで行わなかった。本作はそんな映画だ。

 『ザ・マスター』はある種戦争の映画であった。「戦争」は終戦調印しただけでは終わらない。世界大戦に勝っても、海兵であった主人公は戦争の悪夢を延々と見続けた。戦争は決して癒えぬ傷を与える。本作はそんな映画だ。

 『シンドラーのリスト』は、とても巨大なスケールで「人が人として扱われないこと」を描き、人間ひとりひとりの名前を記す行為で「一人一人に人生と価値がある」ことを魅せた。本作はそんな映画だ。

 

  「サラという名前があったこと」。戦争がその名を消し去ったこと。名前なんて一つの看板に過ぎず、それが無くなってもその人が行なってきたこと、人格が失 われるわけではない。しかし「名前」は時に一アイデンティティとなること、時に人生の軌跡となることもまた事実で、強制的に「名前」を失わせる所業を、国 が行うことは(恐らく)人権的に許されない。本作はその行為を現代から振り返る。

【以下ネタバレ】

  サラが感情を発露するシーンは1つだけだ。弟を迎えに行き、彼と対面した時。その1つだけ。それから、彼女はまるで感情を失ってしまったように感情を見せ ない。サラという美しい名前すら捨ててしまう。そんな「名前と共に過去を棄てる行為」を、彼女自身が好んで選択したわけではない。戦争が「させた」のだ。 戦争で喪われる「名前」を扱った映画として『シンドラーのリスト』と重ねてしまう。『シンドラーのリスト』では、その喪われた名前が「リスト記述」によっ て蘇るが、本作はどうだろう。サラは最後まで名前を消し続け、隣人に愛されたと言うのに、その重荷からか死を選んでしまう。現実的で、悲劇的な話だ。

 映画はサラの名前が再び表れて終わる。サラという女性の人生に感化され、大きく人生を変えた記者が(まるでサラが生きた証だ、と言うように)娘に同名をつけ、それを聞いたサラの息子が涙を流し、画面は暗闇に包まれる。

  第二のサラが、否応無しに「名前を棄ててしまう」世界。我々は、そんな世界、戦争を、二度と起こしてはいけないのだ。政治家でも権力者でもない我々が、国 事に大きく関与する「戦争」勃発に関われる権限は蚊の涙にも満たないかも知れない。でも、だからと言って過去の遺恨を「忘れて」はいけない。何度も繰り返 されてきたありきたりな言葉であるが、本作を見、強くそう思った。と言うより、思わざるをえなかったのである。

  『サラの鍵』で最も観客に近い存在は、きっと「フランスがナチスに加担していた過去に関心を示さない主人公の同僚」だ。彼らは、決して悪人ではない。た だ、想像がしにくいのだ。戦争なんて、昔のことだし、想像もつかないし、散々教わったし、「戦争=いけないこと」とわかりきってはいるから、今更議論する 気にはならない。「戦争は起こしていけないものである」というインプットはとても大事だ。でも、逆にそのことを「当然である」と享受しきってしまい「戦争 の中身への想像」を失うことは危険だ。「当然のこととして」捉えても、戦争が我々にどのような悲劇・傷をもたらすか、方程式だけでは到底わからない。「戦 争=いけないこと」という【方程式】で考えを終わらせた人々は、その【価値観】を、いつしか忘れてゆく。危機感を薄めてしまう。韓国・中国のニュースに カッとなって「戦争だ!」を叫ぶ日本人は、いつしか「とても少数」とは言えなくなってしまった。戦争が始まれば、日本国内にだって傷つく人は沢山出る。そ の傷は、例え戦いに勝利し、終戦しても、遺り続けるだろう。そんなことを、怒りに身を任せる彼らは、忘れさってしまってるように思える。これは、そんな 「戦争へと行き急ぐ現代的市民」にストップをかけてくれる映画だ。本作は「戦争の哀しみの疑似体験」を与えてくれる。その強靭な「映画力」は、きっと作り 手の過去の傷へ触れ合う勇気、そして強き信念から発生している。

 監督は「過去を知らなければ未来は作れない」と述べた。確かに、過去を知 らなければ、その先は「過去の繰り返し」をし続けてしまうのかもしれない。我々は、二度も世界大戦を選択した。その結果、どのような益を得、どのような傷 を負ったか。なにも、それに触れる為に歴史的文献を読め、という話ではない。素晴らしい映画を見、少しでも「戦争がもたらす終止符の無い傷」を「想像」で きれば…。国家以前に、個人として、豊かになれるのではないか。